

2026/8/9
ファッションとは自己表現である、とよく言われる。だが正確ではない。ファッションが表現しているのは、その人が現に何者であるかではない。その人が何者でありたいかである。つまり服とは、本人が意識しているかどうかにかかわらず、ある属性への帰属願望の申告書なのだ。
以下はあくまで筆者の見立てだが、服の来歴をたどると、その構図はわかりやすくなる。
スーツの原型は軍装と乗馬服にある。左前で合わせる打ち合わせも、肩の構造も、袖のボタンも、もとは戦うため、馬に乗るためのものだった。それが官僚と実業家の礼装となり、いまや「組織に属し、規律を受け入れた人間」の記号として機能している。スーツを着るという行為は、その属性への帰属を宣言することにほかならない。

ミリタリージャケットは軍人の、ワークブーツとデニムは肉体労働者の、ライダースジャケットは公道を走る不良の、スニーカーは競技者の装備だった。今日それらを身につける人のほとんどは、軍人でも労働者でも競技者でもない。にもかかわらずそれを選ぶのは、そこにある強さ、たくましさ、自由さ、身体性といった属性に、自分もいくらか近づきたいからである。
これは揶揄ではない。人間はそうやって自分を作る。憧れの装いを先に借りて、中身を後から追いつかせる。ファッションとは、なりたい自分への前借りなのである。
問題は、この前借りが服装にとどまらないことだ。
言葉づかいもまた、ファッションである。
M&Aアドバイザリーやコンサルティングファームの世界で使われる語彙が、そのまま事業会社の日常業務に流れ込んでくる。WACC、EBITDA倍率、バリュエーション、シナジー、ディールブレイカー。これらは本来、資本コストを厳密に計算し、数十億円の意思決定を数字で正当化する現場で、定義の共有された者同士が使うから機能する用語である。
ところが、月次の売上会議で「この施策のWACCを踏まえると」と言い出す人がいる。加重平均資本コストを事業部の一施策に当てはめて何が出るのか、本人にも説明できない。ITの側でも事情は同じで、「アジャイルでいきましょう」という一言が、実質的には「計画を立てていません」の言い換えとして使われる場面は珍しくない。反復と検証によって不確実性を削るという本来の思想は、そこにはない。ただ、計画性の欠如が適切な方法論のように聞こえる包装紙として使われている。

これらはすべて、コンサルタントという属性への帰属願望の表明である。服を借りるのと同じように、語彙を借りている。そして服と違うのは、言葉には相手を煙に巻く効果がある点だ。意味の判然としない横文字を浴びせられた顧客や上司は、理解できないことを自分の不勉強のせいだと考え、口をつぐむ。議論が止まる。止まった議論は、誰にとっても得にならない。
ファッションで仕事をする人間には、共通の症状がある。
目的よりも形式に執着する。何を決めるための会議かより、アジェンダの体裁が気になる。顧客の課題が何かより、資料のフォントとオブジェクトの整列が気になる。示すべき論点よりも、フレームワークの当てはめが先に来る。3Cで整理し、SWOTで並べ、マトリクスに落とし込む。だが、そこから出てくる示唆は「強みを活かし弱みを補う」という、誰も反論しないかわりに誰も動かない一文である。
そして最後に必ずこう言う。「まずは現状分析から始めましょう」と。
彼らが生み出しているものは、成果物であって成果ではない。会社にも社会にも、何のValueも残らない。残るのは、綺麗に整った、読まれないスライドの束だけである。
ここまで書いておきながら、私はファッションそのものを否定しない。
冒頭で述べたとおり、ファッションは理想の体現である。憧れの属性を先取りする行為には、まっとうな効用がある。スーツを着ることで背筋が伸びる人はいるし、専門用語を覚える過程で概念そのものを理解する人もいる。形から入ることは、決して間違いではない。
ただし、前借りには返済が要る。
借りた装いに中身を追いつかせる努力と経験を積まない限り、その服が似合う人間にはならない。WACCを口にするなら、資本コストと事業リスクの関係を自分の言葉で説明できるようになるまで学べばいい。アジャイルを標榜するなら、なぜ反復が不確実性を減らすのかを理解し、実際に短いサイクルを回して痛い目に遭えばいい。数年それを続けた人間が使うWACCとアジャイルは、もはやファッションではない。実務の言語である。
そして最も見苦しいのは、否定でも無知でもない。中途半端に齧った知ったかぶりである。

おしゃれに目覚めたての社会人が、ボタンホールに差し色の入ったシャツを着る。襟の裏地だけが派手なシャツを着る。あれが一番ダサい。理由ははっきりしている。どれも「自分はわかっている側の人間だ」と表明するためだけに存在するディテールであり、機能にも必然にも支えられていないからだ。本当に服を知っている人間は、そんなところで主張しない。
言葉も同じである。半端に覚えた横文字を、意味の輪郭が曖昧なまま会議で振り回す。あれが一番ダサい。そしてタチの悪いことに、シャツと違って、こちらは組織の意思決定を確実に鈍らせる。
自分が何者でありたいのかを装いで示すのは構わない。だが、示した以上は、そこに追いつく責任が生じる。
ファッションは、見た目だけでは変わらないのだ。
筆者:
齊藤壮太
1985年生まれ、横浜・世田谷育ち。学生時代は體育會剣道部、體育會本部に所属。大学卒業後、大手総合商社の18年超のサラリーマン経験を経て、2024年に起業。不動産デベロッパー業務、アパレルOEM、自動車ディストリビューター・ディーラー、製紙事業、経営企画、ERP刷新PJに携わる中で所属した5つの組織が解体された。経営管理、予算・事業計画策定、原料調達、規程・制度導入、システム要件定義・PJ管理・推進、ロジスティクス管理業務など幅広い業務に従事。起業後は、日本食文化を世界に残すための取り組み、寺子屋講師、経営者のサポートなど幅広い実践経験を通じ、ハンズオンで柔軟に経営課題に真摯に取り組んできた。
編集後記
上場企業の社員や経営者ですら、なんちゃってのファッションビジネスマンが目につく。与えられた環境のなかで真剣にvalue-addすることに重要性を見出している人、そしてそれをきちんと評価する人は、もういなくなってしまったのだろうか。装いを競う声ばかりが大きくなる場所で、黙って中身を積んでいる人こそが、本当は一番見られるべきだと思っている。