

2026/8/24
年頭の挨拶や中期計画の資料に「コミュニケーションを大切にしよう」「エンゲージメントを高めよう」と書かれることは多い。しかし、そう書いた翌日から社員の会社に対する忠誠心が上向いた例は、ほとんど見当たらない。1on1を月一回入れる、課会や部会を定期開催する、サーベイのスコアを追いかける。いずれも「関係が良くなればロイヤリティが上がる」という前提に立っているが、この前提そのものが疑わしい。関係が良くなるのは結果であって、原因ではないからである。
日本語には「御恩と奉公」という古い言葉がある。鎌倉の御家人が命を懸けて戦ったのは、将軍が土地という具体的な恩を先に与えたからであって、忠誠心を説かれたからではない。順序が決まっている点が重要である。御恩が先にあり、奉公はその後にしか来ない。
現代の会社も構造は変わらない。社員が会社のために踏ん張るのは、会社から具体的に何かを受け取った実感があるときである。実感のないところに奉公だけを求めれば、それは無償の献身の要求になる。ロイヤリティが高まらないという課題認識を持つ経営者は多いが、その手前で「自社は社員にどんな恩を与えているのか」を棚卸ししている経営者は驚くほど少ない。

会社が社員に与えられるものを整理すると、結局はPAYに行き着く。種類は限られている。第一に給与や賞与といった現金。第二に社宅、家賃補助、通勤手当、単身赴任手当といったフリンジ。第三に社員食堂の提供、ジムの無料利用、休暇制度といったベネフィット。この三つのどれかを厚くする以外に、会社が社員に恩を与える手段は実のところ存在しない。
理念やパーパスは恩ではない。それらは恩を配る理由を説明する言葉であって、恩そのものではない。ここを混同すると、原資を一円も動かさないまま忠誠心だけが上がることを期待する、という無理な話になる。
見落とされやすい第四のPAYがある。会社の都合が生んだ不自由を、会社が取り除くことである。
たとえば、会社が都心にあるから会社の近くに住まなければならない。だから家賃の高い地域に住むことになり、可処分所得が削られ、生活が不自由になる。この連鎖は社員の選択ミスではなく、会社の立地という会社側の事情から始まっている。ならば家賃補助を出すのか、住む場所の自由度を上げるのか、方法はいくつもある。会社が原因を作った不自由は、会社が取り除ける。取り除かれた分だけ社員の生活は具体的に楽になる。これは十分に御恩である。
コミュニケーションが起きないという課題も、同じ発想で扱える。起きない原因を取り除けばいいのであって、気合いで喋らせる話ではない。

そして、どのPAYを選ぶかを決めるのが経営の役目である。同じ一億円を使うにしても、給与に薄く広く配るのか、家賃補助に集中させるのか、食堂に投じるのかで、社員が受け取る体感はまったく違う。若い独身が多い会社と子育て世代が多い会社では、効く順番も変わる。どれが最も経済的な効果が大きいのか、そして自社の経営状況で本当に実施可能なのか。この二つを天秤にかけて配分を決める作業は、経営者にしかできない判断である。
原資が乏しいなら、乏しいと言えばよい。今年は昇給に回せないが、そのかわり住宅補助をここまで引き上げる、という説明であれば社員は受け止められる。恩の総量に限りがあることを、社員は理解している。理解できないのは、恩を配ろうとした形跡が見えないまま、忠誠だけを求められることである。
ロイヤリティを保つとは、社員の心を掴むことではない。会社が社員に与えている恩を経営者自身が正確に把握し、限られた原資の中で最も効く形に配り直し続けることである。その判断から逃げたまま精神論を語れば、社員は敏感にそれを見抜く。逆に言えば、判断から逃げない経営者は、それだけで十分に希少である。
筆者:
齊藤壮太
1985年生まれ、横浜・世田谷育ち。学生時代は體育會剣道部、體育會本部に所属。大学卒業後、大手総合商社の18年超のサラリーマン経験を経て、2024年に起業。不動産デベロッパー業務、アパレルOEM、自動車ディストリビューター・ディーラー、製紙事業、経営企画、ERP刷新PJに携わる中で所属した5つの組織が解体された。経営管理、予算・事業計画策定、原料調達、規程・制度導入、システム要件定義・PJ管理・推進、ロジスティクス管理業務など幅広い業務に従事。起業後は、日本食文化を世界に残すための取り組み、寺子屋講師、経営者のサポートなど幅広い実践経験を通じ、ハンズオンで柔軟に経営課題に真摯に取り組んできた。
編集後記
本稿は、ある上場企業の社長による年頭挨拶への違和感から書き起こした。コミュニケーションを説く前に、自社が社員に何を与えているのかを一度数えてみてほしい。恩の棚卸しは、想像しているよりも痛い作業である。