

飲み会で誰かの噂になると、決まって出る一言がある。
「あの人、いい人なんだけどね」
続きは誰も言わない。言わなくても全員わかっている。仕事は遅い。約束は忘れる。会議では何も言わない。それでも「いい人」の看板だけは、なぜか外されない。
「いい人」は褒め言葉ではない
「いい人」とは、ほかに褒めるところが見つからないときに使う言葉である。「悪い人じゃない」も同じで、これも褒めていない。通知表の所見欄に「元気にあいさつができます」とだけ書かれた子の親は、たいてい薄々察している。
なぜ褒め言葉にならないのか。答えは単純で、悪い人でないことは、社会に出るための最低条件だからだ。
社会は、悪い人がいない前提で組まれている
もともと「悪い人」とは、社会にとって害悪である人を指した。社会で生きていく以上、悪い人であってはならない。会社も学校も町内会も、悪い人はいないという前提で作られている。
ところが、その基準で世の中を見渡すと妙なことに気づく。本来いないはずの悪い人が、ずいぶんたくさんいる。
悪い人は、集団の中にだけ現れる
では、悪い人とはどういう人だったのか。かつての村で言えば、村八分にされた人である。集団で決めたことに従わない人。集団より自分の利益を先に取る人。これが悪い人だった。
一対一なら、人はたいてい主張を抑えられる。取り分を言い張れば、相手との関係がその場で壊れ、損は自分に跳ね返ってくる。だから誰でも、差し向かいではそれなりに感じがいい。
集団になると事情が変わる。自分ひとりが多めに取っても、損は薄く広く全員に散る。誰の財布からいくら抜かれたのか、はっきりしない。その隙間で、自分の利益を徹底して追う人が出てくる。
運動会の綱引きを思い出してほしい。20人で引いている綱の中に、握っているだけで力を入れていない者がひとり混じっている。顔だけは歯を食いしばっている。負けても、20分の1の責任など誰も数えない。この子を放課後に呼んで話を聞けば、ごく普通の子である。
一人で話すと悪い人ではない。その正体はこれだ。悪さは本人の中にあるのではない。集団と本人のあいだに生まれている。
逆に言えば、集団という概念を取り払えば、一般に言う悪い人はほとんど存在しない。集団の義務を果たさず、個人の得を追って集団の目的に反することをする。だから村八分にされ、矯正されてきた。
カンパニーとは、仲間のことである
経営とは、集団を率い、まとめることだ。率いる側、率いられる側、支える側。語られるのはいつも個人の話だが、目的は集団の利益の追求にある。
company の語源は「パンを分け合う仲間」だという。会社とは本来、集団の利を追うために集まった仲間たちのことだ。その中で、自分だけパンを大きく切り取ろうとする者は、もう仲間ではない。だから集団においては悪い人になる。
集団にいる以上、集団の利を追うのは義務である。それに反するなら、集団から抜けるべきだ。国に置き換えれば話はもっと早い。自分の得のために国を売る者を、日本語は昔から売国奴と呼んできた。
村八分は、正義にも私刑にもなる
ただし、この仕組みには裏がある。
飢饉の年を考える。村人は飢えている。蔵には来年植えるための籾が残っている。誰かが「今年はこれを食べよう」と言い出す。皆が頷きかける。そこで一人が口を開く。「それを食べたら、来年の米が作れない」。
集団の利を守ろうとしているのは、どちらか。明らかに後者である。ところが腹を空かせた多数派から見れば、目の前の飯を取り上げようとする邪魔者に映る。村八分の矛先がこの一人に向かうことは、十分にありうる。
悪い人を矯正し、排除するための仕組みは、使い方を誤れば、気に入らない人を排除する道具に変わる。そういうことは時々、実際に起きてきた。
昭和の学園ドラマ『3年B組金八先生』に、「腐ったミカンの方程式」と呼ばれる話がある。箱の中に腐ったミカンがひとつあれば、周りも腐る。だから早く取り除け。前の学校でそう扱われ、厄介払いされてきた生徒を、金八先生は引き受ける。あの話が茶の間に突きつけたのは、腐っているのはミカンなのか、「腐っている」と決めた箱のほうなのか、という問いだった。
経営者なら、自分の会社がどちらになっているかを考えたほうがいい。
組織の利にそぐわない者が、適切に矯正されているか。組織の利を唱えている者を、異端として排除していないか。
評価制度の話で書いた「問題を指摘した人間が干される構造」は、まさに後者の症状である。籾を守れと言った者を追い出した村は、翌年の春に何を植えるのか。
矯正の仕組みが外された国で
かつての日本には、社会に適合しない部分を組織が矯正する仕組みが組み込まれていた。村には村八分があり、学校にも荒っぽい集団の圧力があった。行き過ぎて人を壊した例も少なくない。それでも、無法者を野放しにしない作用は確かに働いていた。
その仕組みを外す道具が、ここ数十年で次々と持ち込まれた。ゆとり教育。いじめ撲滅。「知らない人に挨拶してはいけない」という物騒な教え。コンプライアンス、ハラスメント防止、一億総活躍、ダイバーシティ、DEI。
救われた人は確かにいる。そこは否定しない。問題は、壊した仕組みの代わりを誰も用意しなかったことだ。個人が尊重される一方で、組織への帰属意識は失われすぎた。
帰属先を持たない人間は、自分の得だけを物差しに動く。そういう人が増えれば、社会は判断力を失い、目先の利益を追う者で溢れ、やがて体をなさなくなる。その先で、自分の利益を声高に叫ぶ指導者を喝采で迎える国が生まれるのは、成り行きとしてやむを得ない。海の向こうで、その光景はすでに見ている。日本は、いつかの米国の背中を追いかけている。
このブログの読み方
このブログで書く組織や人の話は、すべてこの土台の上にある。
記事に出てくる困った人物を、自分の職場の誰かに当てはめて笑うのは自由だ。ただ、笑ったあとで一度だけ、自分の組織を振り返ってほしい。その人を干しているのは、本当に「集団の利」なのか。
田を拓き、籾を残し、村を守ってきたご先祖様の苦労を、更地に戻すつもりなのか。
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筆者:
齊藤壮太
横浜・世田谷育ち。学生時代は體育會剣道部、體育會本部に所属。大学卒業後、大手総合商社のサラリーマン経験を経て、2024年に起業。20年近い商社勤務の中で、不動産デベロッパー事業、アパレルOEM事業、自動車ディストリビューター・ディーラー事業、製紙事業、経営企画、ERP刷新PJ統括、デジタル推進組織に携わり、うち所属した5つの組織が解体された。従事した業務は、経営管理、予算・事業計画策定、M&A・PMI推進、原料調達、規程・制度導入、システム要件定義・PJ管理・推進、ロジスティクス管理業務など多岐にわたる。起業後は、日本食文化を世界に残すための取り組み、寺子屋講師、経営者のサポートなど幅広い実践経験を通じ、ハンズオンで経営課題に真摯に取り組んできた。
編集後記
この記事は本来、一本目に置くべきものだった。40本以上書いてから、ようやく土台の話をしている。家で言えば、二階が建ってから基礎を打ち直しているようなものだ。順番が逆になったのは、たぶん私が集団の決まりより、自分の書きたい順番を優先したからである。
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