

4月の社内報。見出しは「当社はジョブ型雇用へ移行します」。
同じ紙面の下の段に、こう書いてある。「新入社員の配属先が決まりました」。
本人が職務を選んだのではなく、会社が配属先を決めた。ジョブ型の一行目と、メンバーシップ型の三行目が、同じ紙の上に並んでいる。
向こうのジョブ型は、道が二本ある
米国の会社では、管理職とそれ以外の職種が、入口の時点で分かれている。
専門職として入った人は、専門職として腕を上げていく。管理職は管理職として採られ、人と仕事を動かすのが職務だ。現場で優秀だった人が、褒美として管理職にされることはあまりない。逆に、管理職が現場の職人技を求められることもない。道が二本あり、それぞれに別の物差しと値段がついている。
日本で語られるジョブ型は、たいてい道が一本のままだ。職務記述書は配られる。評価シートの様式も変わる。けれど優秀な人はやがて管理職になり、配属は会社が決める。
看板を掛け替えても、建物の中の間取りは変わらない。
磯野家の前提
サザエさんの世界では、誰も転職しない。
マスオさんは定年まで同じ会社にいる。だから会社も、彼に時間をかけられる。20代で覚えたことは30代で返ってきて、40代で部下に渡される。日本の給与表は、その前提で引かれた。最初の数年は本人が生む価値より多めに払い、後半で回収する。
初任給は給料ではなく、前払いだった。
3年で抜く苗木に、高い金は出せない

果樹を考えてみる。
苗木を植えても、最初の数年は実がならない。水をやり、枝を整え、冬を越させる。実がなるのは何年も先だ。それでも高い苗を買えるのは、その木が10年、20年そこに立ち、いずれ毎年実をつけると分かっているからである。
このとき農家は、無意識に3つのことをしている。まず、この木が何年でどれだけ実をつけるかを見積もる。次に、10年先の実は今年の実ほど当てにならないので、遠い年の分ほど割り引いて数える。最後に、見込んだ期間が過ぎた時点で木がまだ立っているなら、その木自体の値打ちを足す。この合計より苗が安ければ、買いである。
金融の世界では、これをDCFと呼ぶ。将来入ってくるお金を予測し、遠い先のものほど割り引いて、今の値段に直す。会社を買うときも、工場に機械を入れるときも、この計算をする。
人を採るときだけ、なぜかこの計算をしない。
20万円と30万円の差は、どこから来るか
同じ計算を初任給に当てはめてみる。
長く勤める前提なら、見積もる期間は数十年になる。最初の数年は、本人が生む価値より払う額のほうが大きい。学校を出たばかりの人が、初年度から月20万円分の価値を生むかというと、正直そこまでは届かない。それでも成立するのは、後半の何十年分を足し、さらにその人が後輩を育てて組織に残していくものまで数えているからだ。期間の終わりに残るこの値打ちが大きい。月20万円の初任給は、長い足し算の上に乗っている。
前提を変えてみる。3年で辞める、あるいは会社の側も3年での入れ替えを織り込む。すると足し算は3年で打ち切りになる。4年目以降は数えられない。育てた後輩も、身につけた技能も本人と一緒に出ていくのだから、期間の終わりに残る値打ちはほぼゼロになる。
3年分を割り引いて足した金額と、月30万円を36回払う金額。この2つを並べたとき、前者が勝つ職務は、そう多くない。
払えないのではない。前提と値段が噛み合っていないだけだ。
誰も教えなくなる
もっと静かに効いてくるのが、この「終わりに残る値打ち」のほうだ。
先輩が新人に教えるのは、善意だけではない。教えた相手がこの組織に残り、いつか自分の仕事を軽くしてくれるからでもある。2年かけて仕込んだ人が3年目に出ていくなら、その2年は誰の得にもならない。
人は勘がいい。「うちはジョブ型です」と言われた日から、教え方は少しずつ薄くなる。手取り足取りではなく、マニュアルの置き場所を教えて終わる。誰も悪気はない。前提が変われば、合理的な振る舞いも変わるだけだ。
入口だけ上げると、廊下が狭くなる
初任給30万円を掲げる会社が増えた。人が採れないのだから、当然の動きではある。
ただ、給与は一本の紐でつながっている。入口だけ引き上げて、その先の役職の額をそのままにすると、10年働いた人と入ったばかりの人の差が縮む。部下を持ち、責任を負う側に回る意味が薄くなる。
「それなら年功序列のほうがまだましだ」という声が出るのは、理屈の通った反応である。あれは少なくとも、前提と支払いが一致していた。
上げるなら全体を上げる。順番を飛ばして入口だけ上げると、中にいる人が静かに納得しなくなる。
交渉の席に、誰が座っているか

もう一つ、触れておきたい。
賃金の設計は、本来、会社と働く側が向かい合って決めるものだ。ところが多くの職場では、向かい側に座っている人も、同じ建物に机があり、同じ人事評価を受けている。
審判がどちらかのチームの職員だったら、判定そのものが正しくても、外からは信じにくい。組合で働く人たちが不真面目なのではない。席の立て付けの問題である。この独立が弱いまま、賃金の前提だけが大きく変わろうとしている。
前提と値段が合っているか
ジョブ型が悪いわけではない。メンバーシップ型が正しいわけでもない。
まずいのは、片方の前提で作った値段表を、もう片方の看板の下で使い続けることだ。長くいる前提で前払いした給与を、すぐ辞める人にも同じ額で払う。教育は中長期で回収する設計のまま、回収期間だけ短く宣言する。
社内報の見出しと、その下の配属通知。どちらが本当なのかを、まだ誰も決めていない。
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筆者:
齊藤壮太
横浜・世田谷育ち。学生時代は體育會剣道部、體育會本部に所属。大学卒業後、大手総合商社のサラリーマン経験を経て、2024年に起業。20年近い商社勤務の中で、不動産デベロッパー事業、アパレルOEM事業、自動車ディストリビューター・ディーラー事業、製紙事業、経営企画、ERP刷新PJ統括、デジタル推進組織に携わり、うち所属した5つの組織が解体された。従事した業務は、経営管理、予算・事業計画策定、M&A・PMI推進、原料調達、規程・制度導入、システム要件定義・PJ管理・推進、ロジスティクス管理業務など多岐にわたる。起業後は、日本食文化を世界に残すための取り組み、寺子屋講師、経営者のサポートなど幅広い実践経験を通じ、ハンズオンで経営課題に真摯に取り組んできた。
編集後記
初任給の額がニュースになるたび、金額の話ばかりで、前提の話が抜けていると思う。いくら払うかは、どれだけいてもらうかとセットのはずだ。自分が最初にもらった給料も、今思えば半分は前払いだった。返し終わったかどうかは、まだ分からない。
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採る側が本当に見るべきものについては、成長③ - 採用失敗。自己実現を語る社員で書いた。

物差しそのものが何を測っているかは、評価① - 評価とは何か?にある。

育てる仕組みが消えると何が起きるかは、教育課題② - 皿洗いを飛ばした者は、厨房に立てない。で書いた。

その前払いを何に使うのかは、いい学校、いい会社に行くのはなぜ?で書いている。