

かつて、料理人の修行は皿洗いから始まるという時代があった。
いまこの話をすると、たいてい嫌な顔をされる。時代遅れだ、非効率だ、それはパワハラだ、と。反論としては半分正しい。だから先に、その半分を認めておく。
「修行」「丁稚奉公」「嫌なことは金を払ってでもやれ」。これらの言葉は、長いあいだ都合よく使われてきた。安く働かせる方便になり、理不尽を我慢させる呪文になり、指導力のない上司の免罪符になった。そうやって潰された人は、確かにいた。批判は正当である。
だが、包丁で人を刺す奴がいたからといって、包丁が悪いわけではない。制度が悪用されたことと、制度に意味がなかったことは、別の話だ。
では、なぜ皿洗いから始めたのか。皿を洗う技術が必要だからではない。
あの位置からしか見えないものがあるからである。
シンクの前は、店の定点カメラだ。今日の客の入り。どの皿が残されて戻ってくるか。ピークが何時に来て、そのとき厨房の空気がどう変わるか。誰と誰の呼吸が合っていないか。切らしそうな食材はどれか。皿を洗いながら、人はこれを毎日浴びている。二年浴びれば、店が丸ごと一軒、頭の中に入る。
料理学校で最新の設備を使い、レシピを二百覚えて出てきた人間に、これはない。技術はある。だが、想定外が起きた瞬間にフリーズする。
危機対応能力は、座学では作れない。理由は単純で、危機のほうが教科書を読んでいないからだ。座学で学べるのは実例までであり、現実の危機はその実例の外側から来る。学んだ事例をもとに想像力を働かせ、自分ならどう動くかをシミュレートできるところまでやる人間が、いったい何人いるだろうか。
ゲームで考えると分かりやすい。攻略本を隅から隅まで読んだ人と、実際に百回死んだ人がいる。詳しいのは前者だ。ボスの第二形態で生き残るのは、後者である。
実際に鍋を焦がし、手順やメニューを間違え、客が怒り、人が辞め、機械が止まり、そのたびに手と頭と誠意を尽くして収めてきた。その回数の総量こそが、本当の勉強(実践経験)だ。臨機応変とは才能の名前ではなく、経験した想定外の在庫量のことである。
そして、日本の徒弟制にはもう一つの顔があった。あまり語られない顔だ。
ダメな人間を、見捨てない仕組みだったということである。
学校の成績が悪くても、家が貧しくても、身寄りがなくても、どこかの店や工場が預かった。食わせて、住まわせて、手に職をつけさせた。見返りは安い労働力だったから、美談にする気はない。だが結果として、社会に居場所のない人間を一人残らず引き受ける受け皿になっていた。人と人の繋がりが、制度の代わりをしていた。しかもそのザルは、目が細かかった。
いま、そのザルはどこにあるだろうか。
代わりに我々が求人票に書いているのは、この三文字である。「即戦力」。
そもそも、経験を積んでいない人は即戦力ではない。つまり即戦力を採るとは、よその家でしつけ終わった犬を連れてくるということだ。一軒がやる分には賢い。全員がやったらどうなるか。
子犬を育てる家が、この世から消える。
誰も育てないのに、誰もが育った人を欲しがる社会。教科書どおりの合成の誤謬である。そして育てる会社が消えれば、二十年後には買う人材そのものが存在しない。いま我々が味わっている「採れない」の正体は、たぶんこれだ。二十年前に踏み倒した勘定書きが、利息付きで届いている。
面白いのは、日本が捨てたこの仕組みを、ドイツが制度として残していることである。企業と学校が並行して若者を育てるデュアルシステム。中身は、要するに丁稚奉公だ。国が仕組みとして設計し、社会が職人に敬意を払っている点だけが違う。

日本が粗大ゴミに出した箪笥を、ドイツが拾って磨いて玄関に置いている。そういう絵である。我々は道具を捨て、彼らは柄を付け替えて使い続けた。
では、経営者にとって「育てる」とは具体的に何か。研修を増やすことではない。
やらせて、失敗させて、その損を会社が飲むことである。
育成コストとは、教材費や講師代のことではない。割った皿の代金のことだ。この金額を予算として持っていない会社は、口で何と言おうと育成をしていない。皿を割らせない店では、皿洗いしか育たない。
そしてこれは、別稿「決めない。有害で「優秀」な経営者とは?」に書いた話と地続きである。減点されない訓練を二十年積んだ人間は、決められない。理由は単純で、外した経験がないからだ。皿洗いを飛ばした者が厨房で固まるのと、まったく同じ構造である。
皿洗いを飛ばした者は、厨房に立てない。
そして、飛ばさせたのは本人ではない。飛ばしていいと言った、我々である。
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筆者:
齊藤壮太
横浜・世田谷育ち。学生時代は體育會剣道部、體育會本部に所属。大学卒業後、大手総合商社のサラリーマン経験を経て、2024年に起業。20年近い商社勤務の中で、不動産デベロッパー事業、アパレルOEM事業、自動車ディストリビューター・ディーラー事業、製紙事業、経営企画、ERP刷新PJ統括、デジタル推進組織に携わり、うち所属した5つの組織が解体された。従事した業務は、経営管理、予算・事業計画策定、M&A・PMI推進、原料調達、規程・制度導入、システム要件定義・PJ管理・推進、ロジスティクス管理業務など多岐にわたる。起業後は、日本食文化を世界に残すための取り組み、寺子屋講師、経営者のサポートなど幅広い実践経験を通じ、ハンズオンで経営課題に真摯に取り組んできた。
編集後記
「即戦力募集」と書いた瞬間、その会社は「うちは育てません」と世間に公示している。
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