

月曜の朝、会議室。今年の新人研修の担当を決める議題で、誰も顔を上げない。
「私、人に教えるのは向いていないタイプなので」
「今のご時世、何か言ってハラスメントと言われても困りますし」
「その業務は、私のキャリアプランに入っていないので」
5分後、担当は一番断るのが下手な人に決まる。いつもの人である。
「私らしさ」と「わがまま」の分かれ目
自分らしく働きたい。大事な話だ。否定するつもりはない。
ただ、主張には2種類ある。自分の分を自分で払う主張と、他人に払わせる主張だ。「数字に強いので、分析は任せてください」は前者である。「人前が苦手なので、発表は誰かお願いします」は、請求書をそっと隣の席に回している。
アイデンティティは名札であって、免除証ではない。
道場のモップは、取り合いになる

私が通う剣道の道場では、稽古の最後にモップがけをする人を決める。(本来雑巾掛けであるべきだが、ご愛嬌。) 先生が「今日やる人」と言うと、子供たちが大きな声で我先にと手を挙げる。自分たちが汗を流した床を、自分たちで拭く。
率先するのは、年齢の高い小学生だ。高学年が迷わず手を挙げるから、低学年もそれを見て後に続く。誰も「やりなさい」とは言っていない。上の背中が、そのまま下の教科書になっている。
ところが、新しく入ってきた子は少し違う。手を挙げる周りを見回し、自分に回ってこないかを窺う。損か得かを、先に計算している顔だ。
責めるつもりはない。どこかで覚えてきた癖なのだろう。月曜の会議室で顔を伏せる大人と、同じ癖である。
守られる側の席に、みんなが座りたがる
奇妙な入れ替わりが起きている。「自分は守られるべき側だ」と名乗った人が強くなる。いわばバーチャルな少数派である。すると本来の多数派、つまり教え、叱り、責任を取る側が、いつの間にか職場の少数派になる。
少数派になった人は、自分を守るために動く。君子危うきに近づかず。若手に深入りしない、叱らない、食事にも誘わない。
若手の側も同じだ。気を遣う異性より同性の友人といるほうが楽。結婚もしないほうが楽。どれも個人の自由で、誰にも咎める資格はない。ただ、全員が「楽」を選ぶと、それまで誰かが黙って背負っていた面倒が宙に浮く。高学年が手を挙げなくなった道場では、低学年も手を挙げない。育てる人がいなくなった組織は、10年後の自分を育てられない。
そしてこの雑音のせいで、本当に守られるべき人の声が、いちばん聞こえにくくなっている。
誰もリバウンドを取らない

『SLAM DUNK』の赤木は、湘北のゴール下で黙って体を張り続けた。派手なシュートを決めたい選手はいくらでもいる。けれどリバウンドを取る者がいなければ、外れたシュートはすべて相手のボールになる。
権利の主張はシュートに似ている。目立つし、決まれば拍手が来る。義務はリバウンドだ。地味で、痛くて、誰も褒めてくれない。
全員がシュートを打ちたがるチームは、1本も入らなくなる。
貪官汚吏は、会議室にいる
西郷隆盛が嫌ったのは、禄をもらいながら務めを果たさない役人だった。貪官汚吏。遠い時代の、偉い人の話に聞こえる。
けれど構造は同じだ。組織から給料と守られる権利を受け取り、面倒な務めは他人に回す。これを貪官汚吏と呼ばずに何と呼ぶのか。
もう一つある。「なんであの人ばかり好きに選べるの」と不満を言う人がいる。ところが同じ人が、自分の仕事ぶりを指摘されると「それはハラスメントでは」と身構える。選ぶ権利を欲しがるなら、選んだ結果を批判される義務も一緒に引き受けなければならない。権利に義務が付いてくることを、知らないふりをしているだけだ。
道場は「道」を学ぶ場所
剣道の「道」は、生き方のことだ。道場で教わるのは、竹刀の振り方だけではない。
稽古では、面を何度も打たれる。痛いし、悔しい。それでも構え直して、また向かっていく。そうやって打たれながら育った心は強い。自分の得ばかりを数えてきた者は、土壇場でその心に勝てない。一本を取るのは、損得に惑わされない側である。
新しく入った子も、上の背中を見続ければ、いずれ手を挙げる側に回るだろう。道場には、そうさせる仕組みがある。
会議室には、それがない。研修担当に決まった断るのが下手な人は、今年もホワイトボードの前に立つ。辞退した人たちは、定時に帰っていく。
ここまで読んで「あの人のことだ」と思ったなら、少しだけ思い出してほしい。あなたも一度くらいは、研修担当の議題で顔を伏せたことがないだろうか。
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筆者:
齊藤壮太
横浜・世田谷育ち。学生時代は體育會剣道部、體育會本部に所属。大学卒業後、大手総合商社のサラリーマン経験を経て、2024年に起業。20年近い商社勤務の中で、不動産デベロッパー事業、アパレルOEM事業、自動車ディストリビューター・ディーラー事業、製紙事業、経営企画、ERP刷新PJ統括、デジタル推進組織に携わり、うち所属した5つの組織が解体された。従事した業務は、経営管理、予算・事業計画策定、M&A・PMI推進、原料調達、規程・制度導入、システム要件定義・PJ管理・推進、ロジスティクス管理業務など多岐にわたる。起業後は、日本食文化を世界に残すための取り組み、寺子屋講師、経営者のサポートなど幅広い実践経験を通じ、ハンズオンで経営課題に真摯に取り組んできた。
編集後記
道場でモップの手が挙がる瞬間は、何度見ても気持ちがいい。誰かに褒められるためではなく、自分が使った床だから拭く。それだけのことが、大人になるとなぜか難しくなる。子供たちの声を聞きながら、会議室で黙っていた自分を少し恥ずかしく思う。
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西郷の言う貪官汚吏を、経営者の側から書いたのがこちら。

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